観光情報

棚倉城

棚倉城ができるまで

棚倉城ができる前は、赤館が中心で、伊達氏(宮城県)・佐竹氏(茨城県)と白川の結城氏などの攻防が続き、最後は佐竹氏が棚倉地方を支配することとなった。
徳川氏が天下統一すると佐竹氏は秋田に移されて、棚倉地方は、北九州の立花宗茂が棚倉領主となる。

初代城主(1622~1627)

丹羽五郎左衛門長重公(にわごろうざえもんながしげ)

丹羽氏は、関ヶ原の役で豊臣方であったため領地を取り上げられたが、慶長八年(1603)常陸古渡で一万石の大名に復活、同じく江戸崎で二万石、元和八年(1622)には、五万石の棚倉領主となる。
寛永元年(1624)幕府の命令により、この地にあった近津明神を馬場に移して平城の棚倉城を築き初代城主となる。

城の規模(大きさ)

本丸の四方は多門(長屋のような囲)で土塁の上を囲み、その長さ約604m、高さは3.8mあり、壁には416の狭間(矢・鉄砲を打つ窓)があった。角櫓2階建で4つ、追手門・追手二の門(舛形)・北門・北二門・南門があった。本丸内は東西に約60m、南北約74mの広さで、土塁の高さ約6.4m、内堀の幅約36m、堀の深さは約7.3m、水深は約3.8mと記録にある。二の丸四方の塀の長さ約1,005mで、約1.9mの高さの塀が約2.25mの土手の上にあった。(塀の狭問918)、堀の幅約14m、深さ約6mで水深は約2mであった。
寛永二年着工し、同四年未完のまま、丹羽長重は白河へ十万石で移る。城の呼び名は城の壁が荒土のままだったので新土(あらつち)城・近津明神の跡地に建てたので、近津城ともいわれた。亀ケ城という呼び名のいわれははっきりしない。

二代城主(1627~1665)

内藤豊前守信照公(ないとうぶぜんのかみのぶてる)

寛永四年(1627)近江(滋賀県)より五万石の棚倉城主となる。
寛永六年、京都大徳寺高僧、王室和尚(ぎょくしつおしょう)が紫衣(しえ)事件にかかわって棚倉お預けとなったが、内藤城主は、赤館南麓にあった光徳寺に一つの建物を立てて大切にお世話をする。
城下町は商品の問屋や荷物を運ぶ馬の駅もできて、経済の中心地として発展する。
慶安三年(1650)から承応元年(1652)大阪城代という役にもついたが寛文五年(1665)江戸にて亡くなる。(74歳)

三代城主(1665~1674)

内藤豊前守信良公(ないとうぶぜんのかみのぶよし)

寛文五年(1665)城主となる。同年、市坂(旧上台への道)に愛敬稲荷神社を建てる。 同十二年、城下の大火で武家屋敷136戸(北町・南町)、民家312戸(新町・古町など)が焼けた(現棚倉駅近くにあった長楽寺付近から出火したといわれている。)
延宝二年(1674)、城主を退き、元禄七年蓮家(れんげ)寺境内に常念仏(じょうねんぶつどう)堂を建てる。
同八年、亡くなる。(71歳)

四代城主(1674~1705)

内藤豊前守弐信公(ないとうぶぜんのかみかずのぶ)

延宝二年(1674)に六万五千石で城主となる。同十二年に、本丸土塁上に鐘を造り、朝夕時刻を知らせる。同十四年、宇迦神社の拝殿を再建する。
元禄十五年(1702)三十三観音堂を蓮家寺に寄進(寄付)する。宝永二年(1705)駿河田中(静岡県)に移る。

五代城主(1705~1728)

太田備中守資晴(おおたびっちゅうのかみすけはる)

宝永二年(1705)駿河田中より五万三十七石余で棚倉城主となる。宝永四年、花園に日蓮宗高徳山長久寺を造り、棚倉城の南門を移して山門とする。享保八年(1723)幕府の奏者番という職につき、同十年、寺社奉行にもなる。同十三年、若年寄に進み、上野館林(群馬県)に移る。
この年八槻都々古別神社に大鉄灯龍を寄進(寄付)する。

六代城主(1728~1746)

松平右近将監武元公(まつだいらうこんしょうげんたかちか)

享保十三年(1728)上野館林より五万四千石にて棚倉城主となる。同年、五万五千石、寺社奉行となる。延享三年(1746)館林に帰城し、老中職となる。

七代城主(1746~1776)

小笠原佐渡守長恭公(おがさわらさどのかみながゆき)

延享三年(1746)七歳で遠江掛川(静岡県)より棚倉城主になる。近江(滋賀県)の二万石と棚倉の四万石で六万石となる。寛延三年(1750)塙騒動(戸塚)があり、塙代官の依頼で棚倉より兵を出す。(塙は幕府領だった。)明和四年(1767)佐渡守に名が変わったが、近江二万石のこともあり、財政は非常に苦しく、藩内の生活は大変なものであった。安永五年(1776)亡くなる。(三十七歳)

八代城主(1776~1812)

小笠原佐渡守長堯公(おがさわらさどのかみながたか)

安永四年(1776)十七歳で城主となる。天明四年(1784)領地引替えにて、塙代官より瀬ヶ野・小爪・強梨・戸中・漆草・大梅・福岡・上手沢・下手沢・北山本・中山本・下山本・上渋井・中野・中塚・川上・川下を引き継ぐ。
寛政十二年(1800)浅川一揆を抑えるため、棚倉より兵を出す。文化九年(1812)長昌に家督をゆずる。(隠居して南萼と名のる。)同年五月亡くなる。(四十九歳)

九代城主(1812~1817)

小笠原主殿守長昌公(おがさわらとのものかみながまさ)

文化九年(1812)城主を継ぐ。文化十年、紅葉山火防の役につく。文化十四年、肥前唐津(佐賀県)城主となる。

十代城主(1817~1820)

井上河内守正甫公(いのうえかわちのかみまさもと)

文化十四年、遠江浜松(静岡県)より六万石で棚倉城主となる。文政三年(1820)幕府の役を致仕(やめ)、病気といって、棚倉へは来なかった。棚倉城に蛇が多いという伝説はこの頃つくられる。

十一代城主(1820~1836)

井上河内守正春公(いのうえかわちのかみまさはる)

文政三年(1820)城主となる。文政七年、英国船が常陸大津に上陸したので、棚倉は海岸に陣屋を設けて警備した。天保五年(1834)寺社奉行となる。天保七年、上野館林(群馬県)の城主となる。

十二代城主(1836~1854)

松平周防守康爵公(まつだいらすおうのかみやすたか)

天保七年(1836)石見浜田(島根県)より六万四百石で棚倉城主となる。山本不動尊へ開運祈願の石灯籠を寄進(寄附)する。嘉永七年(1854)城主を退く。安政二年(1855)隠居(弾正少弼と名のる。)

十三代城主(1854~1862)

松平周防守康圭公(まつだいらすおうのかみやすかど)

嘉永七年(1854)兄康爵の養子となり城主になる。藩政改革に意を用い「機業(はた織り)」「瓦焼」「梨千園」「こんにやく栽培」「牧馬(放牧による)」など奨励した。文久二年(1862)に亡くなる。

十四代城主(1862~1864)

松平周防守康泰公(まつだいらすおうのかみやすひら)

文久二年(1862)城主となる。元治元年(1864)天狗党鎮圧のため、棚倉と江戸屋敷から兵を出す。
その年十六歳で亡くなる。

十五代城主(1864~1866)

松平周防守康英公(まつだいらすおうのかみやすひで)

元治元年(1864)城主となる。慶応元年(1865)老中職を二回勤める。慶応二年(1866)天狗党事件で、常陸に兵を出した功績もあり、二万石加増で八万四百余石となる。(天狗党員の処刑も行なう。)同年六月、白河城主になるよう命令があったが、同年十月中止となり、川越(埼玉県)城主となる。このとき禄高(ろくだか)八万四百四十三石となる。

十六代城主(1866~1868)

阿部美作守正静公(あべみまさかのかみまさきよ)

阿部家は八代四十三年間白河城主であつたが、慶応二年(1866)六月十九日、十万石で棚倉城主となる。慶応四年鎮撫総督(ちんぶそうとく)の命令で一時出兵したが、奥羽越列藩同盟(東北の各藩と新潟の藩が手を組んで官軍に立ち向かう。)に入り白河城を中心に官軍と戦い、激しい攻防の末、東軍(東北勢)は敗れ、それぞれの藩に帰る。この戦いで棚倉は五十五名の戦死者を出す。ついで官軍は棚倉総攻撃に入り、六月二十四日、棚倉城は落城した。この戊辰戦争で棚倉城と古町など戦火で焼失した。
棚倉城は江戸時代初めにできて、江戸時代に終わった。(二四四年の歴史であった。)

問い合わせ先

このページに関するお問い合わせは棚倉町文化センター(生涯学習課)です。

〒963-6123 福島県東白川郡棚倉町大字関口字一本松58

電話番号:0247-33-0111

メールでのお問い合わせはこちら

アンケート

棚倉町ホームページをより良いサイトにするために、皆さまのご意見・ご感想をお聞かせください。
なお、この欄からのご意見・ご感想には返信できませんのでご了承ください。

Q.このページはお役に立ちましたか?
スマートフォン用ページで見る