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伊野草分地蔵尊(いのくさわけじぞうそん)由来記

伊野草分地蔵尊(いのくさわけじぞうそん)由来記 01

さて、「伊乃地蔵尊」ともうすお地蔵様は、そもそも「伊乃草分地蔵尊」ともいい、昔の五箇坂(棚倉字宮下)という坂の北側にある、小高い丘の上に立たせられている地蔵尊のことです。

この地蔵のことについては資料が乏しくて調べようもありませんが、この話は明治十九年(1886)常陸の有馬贇雄氏の書かれた『白河国造故蹟考(全)』と同年代の石井可汲(かきゅう)氏の『伊乃草分地蔵并序』の二資料を参考としました。これとてむかしからの口碑(こうひ)を基本とし現地と思い合わせて私考されたものです。さて、その由来をつぎに概略記してみましょう。

この地蔵尊は、塩伊乃己(しおいのこ)自直命(じのあたいのみこと)と申す方をお祭りしたということです。

それでは、どうして命を地蔵様としてお祭りするようになったのか。『国造本紀』という本に、「志賀高穴穂朝御世、以天降天由都彦命十一世孫塩伊乃巳自直定―賜白河国造」と記してありますが、これは、人皇第十三代成務天皇が、志賀高穴穂宮(滋賀県大津市内)に御在位の五年(1840~50年前)にわが国はまだ未開の地が多く、天皇の政治が隅々までゆきわたっていなかったころです。そこで国内を統治するために、幾つかの地域に区分して地方長官をおき、国造といっていました。そのころここ白河国にも国造が配され、はじめて赴任された方が天湯津彦命(あめのゆつひこのみこと)の十一代の孫にあたられる、塩伊乃巳自命と申されるお方でありました。当時、国造になられた方々には、家筋や世襲の職名をあらわすため姓の称号を賜わったのですが、この命は直という姓を授けられたので、塩伊乃己自直命と申しあげるようになりました。

伊野草分地蔵尊(いのくさわけじぞうそん)由来記 02

さて、勅命によって白河国に来られた塩伊乃己自直命はこの地を開拓して土民を王化に浴させるため、自ら鋤や鍬を取られ、荒れ果てた原野を切り拓きました。そして持ってこられた稲種を播き、水陸田を経営して種籾を取りました。それを倉に収めておいて、春にはこれを土民に分け与えて稲を作らせ、始めて米を食べさせました。今まで粟や稗しか知らなかった土民の喜びは、大したものだったでしょう。そうして農業を起し、いっぽうでは養蚕の道を教え、織物を織ることを授け、また、強い者を制し、弱い者を扶けるなど民生に意を用いたので、土民は命を親とも慕い神とも仰ぐようになりました。そして命の名をかりて、この地を「伊乃」と呼ぶようになり、後には転化して「入野」とも呼ばれるようになりました。

初めてこの地に来られた命の徳政によって王化に浴せたことを思うと、命への恩沢は海山よりも大なるものがあったろうと思われます。

当時、命は丸内(棚倉字丸内)の西小丸山という所におり、政治の中心をなしたのでしょう。今も丸内の地名が残り、小丸山には石沢寛助氏の建立になる碑があり、命の偉業を賞し命の霊を祭り、伊乃郷(棚倉)発祥の地の記念碑ともなっています。

この小丸山には、命の善政を忘れられず、その人徳を偲んで当時の土民は一つのほこらを建てて命を祭り、その霊をお慰め申したということです。その名残を留める幾つかの資料があります。すなわち、命を祭る霊社への道筋に坂があって、その坂を於連以(おれい)坂と称しており、「御霊坂」とも「御礼坂」とも書かれたようです。また、霊社の神門もあって、その土台が二基残っていたといいます。その外今でも、字名に堂ノ前や後寺などの名も残っています。

さて、この霊社が、どうして地蔵堂と呼ばれるようになったかですが、これも古記録もなく困りますが、手がかりとしてこんなことが考えられます。

その当時、宗教界では「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という考え方がありました。それは、本地の仏や菩薩が衆生(しゅじょう)を済度するために、迹を垂れて神祇となって現れたということで、神と仏は同体であるとする考え方です。その考え方が流行して、やがて、我が国の神の本地は仏であるということになり、平安朝の末期(1100年代)には、八幡宮の本地は阿弥陀如来であるとするような信仰もあったことから、神としてまつられた命の霊もその頃から地蔵菩薩と崇められるようになったのだろうと思われます。そして、「伊乃」の里を「草分」として初めて開拓した命の霊であるから、「伊乃草分地蔵尊」と申しあげるようになったと考えられます。

その頃の地蔵堂の境内は、御除寺として一切の上納を免ぜられ、真言宗の寺で馬場(棚倉字馬場)にあった高野郷山・金剛密院・上津寺が所轄して、祭祀も行っていたといいます。その後、地蔵堂がくずれすたれたので、この地蔵尊を五箇坂にある同じ真言宗の小滝山、惣持院、妙徳寺にお堂を建ててお移し申しあげたということです。その妙徳寺は延享年間(230~40年前)の地図にはあったということですが、いつ廃寺されたかは全く知られていません。ただ四、五尺ばかりのお堂があって、地蔵尊を祭っていたことだけはいい伝えられています。ところがこの地蔵尊、故あってと書いてあるが、一説には、六部がこの地蔵尊を持ち出したという口碑もあり、とにかく本郡仙石村(古殿町仙石)に渡り、永らく祭られていたといいます。当時は近郷の人々もこの地蔵尊を子安地蔵尊と称し、産婦がお祈りすれば必ず霊験があったので常に香華が絶えなかったといいます。

いっぽう、地蔵尊が仙石村へ移られていた嘉永年間(120~30年前)には、妙徳寺の地蔵堂は火災の難にあいましたが、幸い地蔵尊は仙石村にあったので、難を免れることができたということです。

降って明治十八年(1885)棚倉の住人鈴木伊兵衛氏は以上の経緯を知って、何とかこの地蔵尊を元の伊乃の地にお迎えしたいと、東奔西走して八方手を尽くした結果、その趣旨に賛同するもの数百人となり、さっそく仙石村に交渉するとただちに同意されました。それで棚倉の有志は、地蔵尊をお迎えすることを協議しました。

実は、当時の地蔵尊は五寸ばかりの木彫りの座像だったので、また盗難にあうと困ると思ったかどうかは知りませんが、五尺余りの大きな地蔵尊を刻んで、その胎内に小さな地蔵尊を安置することになりました。壇石も七尺ばかり積み上げて、その上に、地蔵尊の立像をのせたので総尺一丈二尺余(3メートル60~70センチ)の立派なものとなり、むかしなつかしい五箇坂の廃墟に立つことになり、明治十九年一月二日にお迎え申しあげたということです。

今にしてその昔を回顧すれば、星は移り、年は変って幾変遷(いくへんせん)しましたが、伊乃郷開拓の父として今も風雨霜雪の中、笑って立っていらっしゃる姿を仰ぎ見るとき、塩伊乃巳自直命の往時のお慈悲がひとりでに浮び、感謝の念を捧げないではいられない気持ちです。明治以来は、真言宗の勝儀山・西迎院・菩提寺(蓮台寺)の所管となり、毎年八月二十三日に祭祀を行い、酒饌を供え、僧を迎えて経文を誦してその霊をお慰めしておりました。先年、西迎院住職が入寂されたので、同じく真言宗の富岡山・宝泉院・蔵光寺の住職が兼務することになり、現在に至った次第であります。

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