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「逆さ桜」のはなし

「逆さ桜」のはなし01

さて、むかし、陸奥国に俘囚(ふしゅう)というものがあって、その長に代々安倍氏が当たっていました。

頃は、後冷泉(ごれいぜん)天皇の御代、安倍氏は頼時の代になっていました。それまでに胆沢(たんざわ)などの六郡を領し、勢力はますます盛んになってまいりました。そうなると誰も我ままになり、横暴になるものです。頼時もその威力にものをいわせて、中央に対して貢賦(こうふ)を納めなくなったり徭役(ようえき)も出さなくなったりして、時の朝廷のいうことをきかなくなりました

これでは、日本全土の平和は望めないと考えた朝廷は、やむなく源頼義を陸奥守に任命して、さっそく頼時の追討に向わせました。これは永承(えいじょう)六辛卯(かのとう)年(1051)のことで、前九年の役のはじまりです。この時は陸奥守の軍に頼時の軍は敗れたので頼時は一時帰順したように見えたが、それは心からのものではなく、天喜四丙猿(ひのえさる)年(1056)になると、頼時はその子貞任・宗任らと共に再び叛きました。それで朝廷は、前陸奥守鎮守府将軍であった源頼義を再び陸奥守に命じました。頼義は勅(みことのり)を奉じて将兵を率いて、またまた安倍氏討伐を開始したのであります。この時にあたり、源頼義の長子八幡太郎義家も若冠十七、八歳であったろうが、父に従い奥州路へと足を踏み入れました。

「逆さ桜」のはなし02

当時、この地方でも合戦があったらしく、義家は手勢を引き連れ、駿馬(しゅんめ)むち打って東へ西へ敵将安倍貞任を追い撃っていましたが、折りあしく義家の馬は深田に足をとられてしまいました。これにはさすがの駿馬も身動きできず、四苦八苦の末ようやくこの深田を抜け出すことができました。これを遠巻きにして見ていた味方の者共に向って、義家は「これよりは深田なり、進むべからず。」と下知して、深田の目印のために持っていた桜の枝のむちをその地に突き差したといいます。

それより後、この桜の枝は不思議にも芽を出し、年を経るに従って生育し、やがて、来る春も来る春も爛漫と花を咲かせたということです。

これだけならなんらの変哲もないお話ですが、義家が深田の境に差した桜の枝は逆さだったのです。だから葉のつき方も花の開き方もまったく普通の桜と逆さだったので、里人はおおいに驚き、この桜を「逆さ桜」と呼んで珍重がったということです。

この桜、惜しむらくは明治の初年までありましたが、ついに倒れてしまったといいますが、これがまた不思議にもその残根が芽をふき花を咲かせていました。この珍しいい桜を記念するために、碑を立てて記念木として保存していたということです。それがどういうわけか、そばを通る水郡線開通の頃枯れてしまい、今は惜しくもその代わりに植えた桜だということです。

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