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阿部正備茶室

阿部正備茶室の概要

寄棟造り木羽葺きの建造物です。平面は桁行一間半(2.96m)、梁間一間半(3.03m)、総面積約8.97m2の四畳半(京間)の一隅に水屋を配した四畳席の茶室で、周囲には壁羽目の板壁を採用している類例のない遺構です。明治時代に編纂された『東白川郡沿革私考』の記述によれば、この茶室は阿部養浩(阿部家十三代の阿部能登守正備、隠居して養浩と称す。慶応2年(1866)に阿部家が棚倉町に転封した際は藩主の阿部正静に従い棚倉に転居する。)の所有であったものを、明治維新後に当時の棚倉町古町の商家が譲り受け、自宅の屋敷に離れとして移築したもので、棚倉藩主ゆかりの建造物として大変貴重な文化財となっています。『東白川郡沿革私考』に記載されている平面図と合致することから、少なくとも移築時においては、規模と間取りは変更されていないことが判明しています。(町指定有形文化財)

『茶室』の画像 

      ↑阿部正備茶室 外観

◆阿部正備(あべまさかた)

 肥前大村藩2万7900石余の城主大村豊前守純昌の次男として、文政6年(1823)に生まれ、天保9年(1838)5月に白河藩主阿部正瞭の養子となります。同年6月に白河10万石の藩主となり、10月に従五以下、能登守に叙任され、白河への初めてのお国入りは天保11年(1840)でした。天保14年(1843)に奏者番を命ぜられます。正備は藩政にあっては文武を推奨し、藩校修道館を士分以外の子弟にも開放しました。嘉永6年(1848)に藩主を退いてからは「養浩」「省私堂」と称し、和歌をよく詠みました。養浩が西郷村河内渓谷に遊んだ時の「河内紀行」が知られています。紀行文には和歌や長歌が記されており、養浩は国文学にも長じた歌人でもありました。和歌の師は加藤千浪と同門の井上文雄といわれています。幕末の戊辰戦争では恭順派であり、実家の大村藩(勤王方)との間にあって阿部家の戦後処理を有利に導いたといわれています。明治7年(1874)に東京で没しました。

引用・参考文献「白河市史」

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