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水戸天狗党と八溝小僧

水戸天狗党

これは、今から100年余り前の幕末の頃、尊王攘夷を目的とした集団で、元治(げんじ)元甲子(きのえね)年(1864)に武田耕雲斎らの一味が、筑波山に挙兵して、天下を驚かした義兵たちのことです。
この義兵集団をなぜ天狗党といったのかははっきりしません。一説によると、ある会合のとき、たまたま尊王攘夷の話に花が咲き、いろいろ議論したすえに、“もしも京都と幕府との間に不調和な事態が生じたら、いったいわれわれは、京都(天皇)と江戸(幕府)とのどちらにつくべきか”と提案した者がおり、ちょうど、その席におられた藤田東湖先生が“京都についた方がこれだよ”といって、鼻の頭にこぶしを重ねて天狗のまねをしました。それ以来、京都方についた者は天狗のように鼻が高いという意味で、尊王攘夷の人たちの集団を天狗党といったといわれています。

攘夷か開港か

水戸天狗党と八溝小僧01

江戸の幕府も、徳川家康公が開いてから250~60年も過ぎ、末期ともなると、封建政治が大きく崩れはじめました。幕府や各藩の財政も危機におちいり、あまりの苦しさに百姓一揆も相次いで起こり、世論がさわがしくなってまいりました。

そんなことで、幕府や藩の政治のあり方が問題となり、内部に党派的ごとなしこりができ、政治的対立がはげしくなってきました。

さらに問題なのは、その頃、外国船が開港を求めてつぎつぎに来航するようになり、国内問題のほかに、対外問題がからんで幕藩の体制をゆさぶりはじめました。特に、対外問題については、幕藩共に危機を意識して海防の強化につとめるようになり、文字通り「内憂外患(ないゆうがいかん)こもごもいたる」という感じを強く受けるようになりました。 こうしたことから“天皇の親政を復活し、外国船を打ち払うがよい”とする尊王攘夷論と“今の幕府を盛り立てて港を開いて、おおいに外国と交易をする方がよい”とする佐幕開港論(さばくかいこうろん)の二議論が全国的な風潮として広まっていきました。

 

水戸藩の尊王攘夷論

水戸藩では、さきの二議論の出る前の天保年間(1830~1844)から、二つの勢力が争っていました。それは、つぎの藩主をだれにするかの問題を巡って、保守的な上級武士層と改革を望む中、下級武士層とが相反目し、争っていましたが、改革派が勝って、徳川斉昭(なりあき)公を藩主に迎えて、藩政の大改革をして以来、両勢力は相対立するようになりました。

さらに、安政年間(1854~1860)には、将軍の継嗣問題と条約勅許(ちょっきょ)の政争がありました。なかでも安政五戊午年八月、水戸藩に勅書が出されましたが、それは、幕府が勅許を得ずに日米通商条約に無断で調印したうえ、斉昭らを処罰したのでそれを責め、幕府が公論を聞いて、公武一和の政策を幕府に採らせるよう水戸藩に尽力を命じたものでした。これが水戸藩の降勅問題ですが、これがこじれて安政の大獄となり、また、桜田門外の変となり、一挙に幕府の権威を失墜することになります。

しかし、水戸浪士は、尊王攘夷の実行と井伊大老を殺害して、幕府の改造を願ったのあって、決して倒幕のことは考えていなかったと言います。水戸浪士が、実行しようとする尊王攘夷は、そもそも「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」の流れをくんだ、後期の水戸学者たちが鼓吹したものです。幕藩性の危機に際して封建体制を「内憂外患」から守るために唱えたものであり、少しも反幕的な要素を持たないどころか、かえって幕府の体制を擁護する立場をとるのが水戸学の本質だったのです。

しかし、降勅問題の処理にあたっては、幕府の強い圧力に屈して勅書を幕府に提出することを主張する「鎮」派と、それを拒否する「激」派の二派が互いに強く対立するようになり、天保年間以来の根深い対立に油をそそいだ結果となってはげしさを加えてまいりました。

天狗党の挙兵

水戸天狗党と八溝小僧02

文久三癸亥年(1863)は、長州藩の外国船の砲撃事件、大和の天誅組の乱など各所に、内乱、義挙があり、それらに刺激された尊攘「激」派は、十月頃から、常、総、野三州の農村や宿場町に対して攘夷のための軍資金や物資の調達に走り廻り、金穀を強要したり、差し出さねば掠奪をしたりしました。これに襲われた物持ちや資産家は実に気の毒でしたが、いかに尽忠報国の武士でも、飲まず食わずでは働けず“小の虫を殺して、大の虫を助ける”のたとえの通り、必要な物資は、やはり人民を犠牲にして徴発するよりほかに道はなかったのでしょう。

このため、暴動まで起った地方もあったといいます。翌元治元甲子(きのえね)年(1864)も、またまた内乱の年であって、関東地方では、春三月二十七日に、水戸藩の尊攘派が一体となり、武田耕雲斎・藤田東湖の一子小四郎・田中愿蔵らが中心となって、筑波山にたむろして義旗を風になびかせ、挙兵したのが天狗党の乱(1864)です。これがきっかけとなり、京都周辺だけでも、新撰組の池田屋事件(1864)、蛤御門(はまぐりごもん)の変があり、年末には、長州藩内の内戦などがあって、天下は上を下への大騒ぎとなりました。これには武士や浪士だけでなく、農民も商人も参加したのですから大変な騒ぎだったことでしょう。

天狗党の分裂

さて、筑波山に義挙を起した天狗党は、今後の作戦について軍議を開いた時、水戸藩の出で、もともと「鎮」派の藤田小四郎は“幕府を助けて、尊王の実効を奏せん”と主張すれば「激」派の田中愿蔵は“幕府を存置せしめて、なんの尊王ぞ”とさすがの天狗党も、討幕を主張して譲らず、まっぷたつに割れ対立するようになりました。

このように、集団挙兵の目的の相違から、党内には派閥が起こり、紛争が絶えなくなって、ついに栃木の大平山陣営で第一回の分裂が起こり、その後筑波山に帰ってからも上州(群馬県)組が分裂し、さらに、小塙村の会談では他藩浪士が分裂してしまい、那珂湊(茨城県)では榊原一派の1200有余名が幕軍に降ってしまいました。さすがの天狗党も四分五裂の状態となって弱体化したところへ、首領の武田耕雲斎は、もともと「鎮」派だったので、田中に組することはできないとして那珂湊を捨て京都にいってしまいました。そこで、あとに残った者は、討幕の決意の固い志士だけが田中派に加盟して、筑波で戦うことになり、苦戦は覚悟せねばならなくなりました。

 

討幕軍の出陣

これより先「筑波山に義旗が翻(ひるがえ)る」と報ぜられると、日頃、尊攘精神を燃やしていた者、幕藩政治に不満不平の者、全国よりつどい寄る志士たちは日に夜をついでその数を増し、中には浪士はもちろん、百姓、町人、僧侶などその職を選ばずというところで、このまま放置するとどんな暴動になるかわからない状態になりました。

水戸天狗党と八溝小僧03

そこで水戸藩にこれを鎮定するよう再度にわたり幕府が命令しても、当時は、烈公も東湖も亡き後なのでこれを収拾する適任のものもなく、藩内は甲論乙駁相争うばかりで少しもらちがあきませんでした。幕府はこれを案じて討伐のことを田沼玄番頭に命じたが、水戸へは行かず、笠間(茨城県)に滞陣し屋代増之助の討伐の手配を依頼しました。

屋代は塙(東白川郡塙町)代官安井仲平に文書を出し、「常州暴行の浮浪ならびに水戸殿家来の内、天狗組と唱え候もの共、(中略)速やかに召し捕り又は打ち殺し候様いたすべく候、もっとも松平周防守様は、この地追討の人数繰り出し相成り居り候間、(後略)」と、九月七日付でその取り締りを厳達しています。したがって、八溝山を取り囲む各藩や代官所にも手配され、目ぼしい所に関門や見張所を設けて検問させ、所によっては農民などの竹槍隊の自警団もできたといいます。塙では塙表警衛場が設けられ、棚倉藩はもちろん、白河藩の阿部氏、二本松藩の丹羽氏に猟師などを連れて応援に来るよう依頼しているところをみると相当なきびしさで、これではのがれるすきもありません。

天狗党の解散

水戸天狗党と八溝小僧04

挙兵当時の意気込みはどこへやら、分裂に分裂を重ねて弱体化した天狗党は地の利の不便さもあって、筑波山を捨てることにしました。

時あたかも元治元甲子(きのえね)年九月下旬、筑波を脱出した天狗党の首領田中愿蔵は、三百数十名の将士を連れて、茨城、栃木、福島の三県境にそびえる八溝の山を次の本拠地と定め、再挙を計って八溝嶺神社の高梨別当に送り、食糧の準備を頼んだのでしたが、天狗党討伐のきびしさを考え、後難をおそれた別当一家はいち早く逐電してしまいました。

それとは知らず田中隊が八溝入りしてみれば、山頂の社殿にわずか籾三俵があっただけですからこれではどうしようもありません。多くの将兵は三日も食わずに過ごしたといいますから、みんなふらふらです。これではいかに負けん気の田中でもどうすることもできなかったでしょう。 それで、とうとう悲壮な覚悟をきめて、一同を社前に集め、事情協議のうえ一旦隊を解散して、後日再挙を計ることを約束して渓流の水を酌み交わし、別れの宴を張り別れを惜しんだ後、各自が思い思い、自由行動をとってそれぞれ分かれていきました。

天狗平の処刑

水戸天狗党と八溝小僧05

各自下山した党員の一部には棚倉城下に入ろうとした組もありました。それが剣士といわれた藤田由之助と共に大梅村(棚倉町大梅)に向った総勢三十余名で、あたりを警戒しながらおりて来ました。

いっぽう、塙代官を通じ幕府の命を受けた棚倉藩主松平周防守は、山のふもとに見張所を設け厳重に手配していたので、通りかかった志士たちはさっそくとらえられ、近所の土蔵に監禁されてしまったといいます。

この時、とらわれの身となったものは総勢二十四名でしたが、後日段河内(だんごうち)(大梅)地内に引き出され、十数尺もあろうという桜の木に捕縄(ほじょう)のまま引っ掛けられつるし切りにされました。そのしかばねは、同時に数人ずつ埋めて葬られたといわれます。どこの地方でもこんな哀れな結果となって約八か月にわたった全国的な大騒動も、ここに悲壮な終末を告げたのです。
棚倉藩主松平周防守は、その後宇都宮に転封のところ、天狗党討伐の功により二万石の加増となり、武州川越城に栄転することになりましたが、刑死した天狗党の志士の最後を思うと余りにも哀れでなりません。周防守も心残りを感じ、処刑地に「三界万霊塔(さんがいばんれいとう)」と刻んだ供養碑を建て、慰霊祭を行って川越に去られたといいます。その碑は、

表「三界万霊塔」

裏「慶応元乙丑九月廿九日」

と刻まれてあり、今も現地に淋しく立っています。でも、秋春には尋ねて来る人があるのでしょう。香華が手向けられていました。

この地を、後世天狗平と呼び、今だに浪士の武勇を物語っているところです。

八溝小僧

さて、八溝小僧のことですが、先に、八溝の山に登った天狗党が手配したはずの食糧が不足で、やむなく解散して大梅村に下山して来た藤田由之助の一隊の中に、「八溝小僧」と呼ばれた少年がいました。この少年は浪士より尊敬されていましたが、年はわずか十三歳であったといい、はたから見ると異様だったのでしょう。

浪士たちと共にこの少年もとらわれて同じく土蔵に監禁されると、浪士たちは、一人一人十三歳のこの少年の前に進み出て、平伏して名を名のったそうです。そして、この土蔵での生活中はいつも八溝小僧を正面上座に据え、他の浪士は左右に控えていたというのですから余程高貴な方のご子息だったのだろうと思います。

水戸天狗党と八溝小僧06

まもなく、他の浪士と共に天狗平の露と消え失せたのですが、尊攘運動の一員として活躍することは、やがて維新回天の大偉業を成し遂げるのだと信じ、一命をこの難に殉じたことは忠誠心がそうさせたのでしょうが、どうしてもわずか十三歳の少年のなす業ではないと思い、心から頭のさがる思いで感慨無量という他にことばがありません。

この八溝小僧の身元についてはよく明らかにされてはいませんが、現地に建てられている供養碑に中に「蔀(しとみ) 幼君(ようくん) 年十三歳」と刻んであるので「八溝小僧」とはこの少年ではなかったかとただ推測するだけです。この碑は、天狗党の研究家故金沢春友氏(塙町出身)が、この先駆者の霊を慰めるために建てられた記念碑で、現地に立っています。

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