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棚倉は唱歌「蛍の光」のふるさと

棚倉は唱歌「蛍の光」のふるさと

~稲垣千穎を追って~

執筆 中西光雄氏(稲垣千穎研究者) 広報たなぐら(平成22年8月号)掲載

 かつて、全国の小中学校・高等学校の卒業式で歌われた文部省唱歌「蛍の光」を、今も覚えておられる方も多いことでしょう。近年、生徒にとってより身近な歌を…ということで、ポップソングや新作の卒業の歌が歌われることが多くなりましたが、かつては「仰げば尊し」とともに、卒業式では定番の曲でした。この歌は、明治14(1881) 年に出版された、我が国最初の音楽の教科書『小学唱歌集』に掲載されました。その後、正式に教育課程の中には組み込まれることは一度もありませんでしたが、なぜほとんどの日本人が歌えたのかといえば、卒業式に出席する小学校の高学年になると、必ず教師から歌唱指導を受けたからなのです。まずは、卒業生を送り出す在校生の立場で歌い、やがて自らがこの曲に送られて学舎を巣立つ。涙ながらに先生や友だちと別れて行く、そのせつない思いを、「蛍の光」とともに記憶されている方に、私はたくさんお目にかかりました。そして、この連綿とした学校教育の歴史が、日本の近代化を支えてきたことは、間違いありません。

 「蛍の光」の曲は、スコットランド民謡「AULD LANG SINE(はるかな昔)」です。これは、我が国に西洋流の音楽教育を導入するためにつくられた機関「音楽取調掛」(おんがくとりしらべがかり)(現在の東京芸術大学)のお雇い外国人ルーサー・ホワイティング・メイソンが持ち込んだ、キリスト教の讃美歌集から採られたものとされています。スコットランド民謡の、哀愁を帯びたペンタトニック(ヨナ抜き)音階が、私たち日本人の感性・好みに適合したことは間違いありませんが、この曲は、キリスト教の宣教師たちによって、広くアジア太平洋地域に讃美歌として伝えられ、長く大韓民国やモルジブ共和国の国歌であったことも忘れてはならないと思います。
我が国でも、同時期に大阪で出版された楽譜付きの讃美歌集に、この曲が収録されています。

 しかし、諸外国と異なり、日本では讃美歌として定着する以前に、卒業式に歌われる唱歌「蛍の光」として有名になったのでした。この歌の出来た明治14年頃の政治状況は、明治維新の自由闊達(かったつ)な雰囲気が、急激に保守化していました。まさにはじまろうとしていた唱歌教育も、儒教的な倫理観に基づいた徳性の涵養(かんよう)に主眼がおかれようとしていたのです。そこで、作詞家として「音楽取調掛」に雇い入れられたのが、国文漢文の広い学識を持つ稲垣千穎という人物でした。この人は、開校してまもない東京師範学校の教師でしたが、当時校長であった伊沢修二(明治を代表する教育者)が音楽取調掛長を兼務していたことから、白羽の矢が立てられたのだと思われます。彼は、「蛍の光」の作詞の他、「君が代」の補作なども行っており、数年のうちにめざましい活躍をしました。しかし、記録がなく、彼の出自(しゅつじ)や生涯は長い間、不明とされてきたのです。唱歌「ふるさと」「春の小川」の作詞で有名な高野辰之も、昭和の初めに稲垣について調べたようですが、結局わからなかったと随筆に記しています。

 私は、およそ10年にわたり、この稲垣千穎という人物について調査研究をしてきました。当初は、彼の編纂(へんさん)した古典の教科書から、埼玉県士族であることくらいしかわかりませんでした。伊沢修二が晩年出版した自伝に、惜しいことに既に稲垣が亡くなってしまったと書いていることから、夭折(ようせつ)の詩人を想像していたのですが、東京師範学校の卒業生の組織「茗渓会」(めいけいかい)の雑誌を調べているうちに、稲垣が伊沢より長く、大正2年まで生きたことが分かりました。追悼記事から、葬儀の行われた東京谷中の寺を訪問し、霊園内に彼の墓石を発見したときの悦びは今も忘れません。墓前で、必ず稲垣千穎の名を、世に出すことを誓いました。その後、2002年にCD『蛍の光のすべて』(キングレコード)の解説を書いたときに、朝の番組でそれを紹介してくださった日本テレビのスタッフの方が、墓所を守っておられる稲垣の子孫の方を調べ仲介してくださり、私は鎌倉に住むその方のもとへ飛んで参りました。そこで、はじめて、稲垣千穎が川越(松井)藩の家臣であったことを知ることになったのです。

 ターゲットが明確になったので、川越市立博物館に調査に出向いたところ、現館長の大野政巳さんが大変な資料を見せてくださいました。それは、旧川越藩士の親睦団体「三芳野温知会(みよしのおんちかい)[現初雁温知会](はつかりおんちかい)」の会報の、稲垣の追悼記事でた。大枝美福(おおえだびふく)[ノーベル賞の朝永振一郎博士の母方の祖父]の書いた追悼文は、大変詳細なもので、稲垣が奥州棚倉生まれであること、大枝の父松本興雅(こうが)が彼に読書習字を教えたこと、日光の寺院へ留学したこと、さらに藩主の川越転封に伴って、川越に入り、若くして藩校長善館の教員となったこと、開明的な藩主の推挙によって京都に留学、その後、東京の平田鐵胤(かねたね)の国学塾「気吹舎(ぶきのや)」に入塾、成績優秀により塾頭に就任したこと、その後東京師範学校の教師となったことなど、重要な記事が書かれておりました。明治2年の分限帳によると、稲垣も大枝( 松本)も中小姓の家柄、いわば中級武士であったこともわかりました。稲垣も大枝も、明治になって古典・歴史・地理などの教科書を出版していますから、棚倉生まれの彼らが、我が国の教育の礎になったことは間違いないことです。

 さらに、驚くべきことがありました。数年前に公開された国立歴史民俗博物館所蔵の平田家文書の中から、稲垣の気吹舎時代の生活を彷彿(ほうふつ)とさせる資料がたくさん出て来たのです。彼の成績が、入塾当初から抜群のものであり、将来を嘱望されていたこと、塾頭に就任するも、塾則で禁じられている遊郭登楼(ゆうかくとうろう)が発覚して、退塾させられたこと、いわば稲垣の栄光と最初の挫折が、資料によって生き生きとよみがえってきます。稲垣の名誉のために言えば、当時武士の遊郭登楼は日常的に行われていたことであり、彼の退塾の背景には、好成績への妬みや、塾内での政治的闘争があると考えたほうがよいと思われます。注意すべきは、稲垣が、平田派に属する正当な国学者だったということです。政治的に過激な言動があったために、明治十年代には政治・文化の表舞台から姿を消していった平田派にあって、稲垣が非政治的な歌人学者の道を貫き、我が国の教育の根幹をなす東京師範学校の教師に就任していたことは、今後大いに注目され、研究されてしかるべきでしょう。また古典の教科書編纂者としての稲垣千穎については、早稲田大学教育学部の助手菊野雅之さんが本格的に研究されており、まもなくその成果が発表されるはずです。稲垣は、明治初期の古典教科書をたくさん編集出版しました。それらの多くがベストセラーとなり、稲垣に大きな資産を残しました。私は、東京師範学校の教諭を在職10年でやめながら、晩年まで公職につかずに生活ができたのは、教科書出版で得た恒産があったからだと、推察しています。退職後、彼は地域の教師の組織下谷教育会の二代目の会長を務めたと記録にあります。初代の会長が国語辞書『言海』を編纂した大槻文彦ですから、稲垣自身も、当時は大変有名な教育者・国文学者として人望があったことが彷彿とされます。これほどの有名人が、なぜすっかり忘れられていたのか、今となっては不思議でなりません。

 しかし、今、おだやかに、稲垣千穎に光が当たろうとしています。 今年の3月16日の日本経済新聞文化面で、私の稲垣千穎研究の一端をご紹介いただきましたところ、棚倉のみなさまから、たくさんお問い合わせをいただきました。私自身も、10年かかってやっと稲垣の生地棚倉にたどりついたという思いもあり、4月18日に春浅い棚倉の調査に参りました。文化財保護委員で初雁温知会棚倉支部の山田芳則さんから、松井家時代の屋敷割の図面や墓石の調査資料を見せていただき、稲垣家が一時期江戸詰であった可能性があると指摘していただきました。しかしながら、山田さん、教育委員会の藤田直一さん、私の三人で、あるかぎりの資料を突き合わせ検討した結果、大枝美福の追悼文にあるように稲垣千穎が棚倉生まれであることは確実であるとの結論を得ました。そのことは、直ちに藤田町長にもお伝えいたしましたが、棚倉町に住む皆様おひとりおひとりにも、是非知っていただきたいと念願しております。

 棚倉に生まれた中級武士の若者が、日光で学び、川越で教職につく。そして、京都を経て、東京に出て正当な国学を学び、師範学校の教諭となって日本の教育の礎を作ったのです。彼の生涯を俯瞰(ふかん)すれば、近代日本で百数十年歌い継がれてきた「蛍の光」が、偶然の産物ではないことがおわかりいただけるでしょう。稲垣が「蛍の光」を作詞したのは東京ですが、棚倉は「蛍の光」のふるさとと言ってよいと思うのです。いまや卒業式で歌われることが少なくなったこの歌ですが、どうか今年の大晦日NHK紅白歌合戦のフィナーレで、この曲を歌ってください。そして、作詞者としてクレジットされる稲垣千穎こそ、皆さまと同じ清らかな空気を吸い、おいしい水を飲んで育った棚倉生まれの人物であることに、誇りを感じていただきたいと思います。

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